浜松城と堀尾吉晴

matsusaku2006-09-12


先日久しぶりに浜松城まで行ってきた。
僕の家からは歩いて10分くらい。
浜松城のすぐ東側に、僕が数年???前通っていた小学校がある。
石垣の上から見渡すと、昔とは若干景色は変わっているものの、当時を思い出させる懐かしい光景だった。



この浜松城の石垣↑は野面積み(のづらづみ)と言って、自然石を巧みに組み合わせたもので、見た目は粗雑だけど崩れにくく水はけが良いのが特徴。
実際、徳川家康が元亀元年(1570年)に築城して以来、一部を平成5年(1993年)に修復してはいるものの、その多くは当時のままだ。



ちなみに家康は、29歳から46歳までの17年間を浜松城で過ごした。
9月3日のNHK大河ドラマ功名が辻』では、家康46歳で関東に移されるあたりが描かれていた。

内容としては、1590年秀吉が北条攻めに勝利し、その時の家康の功績をたたえ、浜松を含む東海五国の代わりに北条から没収した関八州・二百四十万石の領地をすべて家康に与えるというもの。

これは、衆知のように家康を関東へ封じ込める意味があったと言う。




そして山内一豊遠州掛川5万石、
生瀬勝久*1演ずる堀尾吉晴*2遠州浜松12万石、
ロンドンブーツの田村淳*3演ずる中村一氏*4駿河14万5千石を与え、
関東の家康への押さえとして配するのだった。



家康が浜松城を築城したのは良く知られているけど、意外と知らないのがそれ以降の歴代城主。
2代目の堀尾吉晴は、浜松城天守閣をつくり次男の堀尾忠氏と通算して11年間在城した。





その後、堀尾氏は出雲月山富田城に入城し松江藩が成立。松江城を築城した。
そのとき建てられた、高さ30m5層6階桃山様式の松江城天守は、築城当時のまま現存していて、国の重要文化財に指定されている。
堀尾吉晴穏和な人柄で人望があり、「仏の茂助」と称された。子孫は肥後細川家に仕えて名跡を存続させている。

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僕自身小さい頃、歴史は年表などを覚えるのがめんどくさく、あまり好きじゃなかった。
「昔のことを覚えたって先を見なきゃ、これからの時代渡って行けないじゃないか!」
なんて、思っていたものだ。

それが最近、年のせいか神社仏閣・城などに興味が出てきた。
その時代においてどう人と付き合うか、どやって政治を治めるか、どう最先端の戦術を駆使するか。
など、時代背景を踏まえたうえ、その「人」の考え方を読み解くことで、現代にも通用するんだなということが解ってきた。


やっぱり、時代は違っても中心は人間。
家族のこと、生計のこと、男女のことなど、同じようなことで悩んでいる。
戦国時代だって、出世するため功名を上げるためどうしたら良いか考えている。
今のサラリーマンと変わらない。

お手柄を上げれば『ご加増』。ボーナスがもらえ歩合制だった。
中には、出世をあきらめて出家する人もいる。
争うことを好む人間はあまりいないと思うが、争わずして国を治めるのは難しい。



そんな中、戦国時代を終焉させ、その後約250年平和に続く「江戸時代」の基礎を作った徳川家康はすごいと思う。
世界適に見ても、他国と争わず250年も平和な時代が続いた国は日本だけだ。
江戸時代に学ぶことは多い。

*1:1960年生まれ、兵庫県出身。1983年から2001年まで劇団そとばこまちに在籍。1988年の座長就任以降は劇作家、演出家としても活躍するほか、舞台、テレビ、映画で幅広い役柄をこなし、作品ごとに印象深い役どころを演じている。

*2:一豊の親友。一豊と同世代の武将で、同じく信長・秀吉に仕え出世を競う、サラリーマン社会になぞらえればいわば一豊の「同僚」。その誠実な人柄は衆目の一致するところで「仏の堀尾」とあだ名される一方、本能寺の変の後の山崎の戦では天王山を制するなど武勲も高く、豊臣政権の三中老の一人となる。一豊との友情は終生変わることがなかった。

*3:1973年生まれ、山口県出身。田村亮とお笑いコンビ“ロンドンブーツ1号2号”を結成し、1994年にデビュー。以後、テレビのバラエティーでは多数のレギュラー番組に出演するほか、CM、お笑いライブなどで幅広く活躍。

*4:一豊の「同僚」。信長・秀吉に仕え、怜悧な切れ者として知られるが、一豊や堀尾には熱い一面を見せたりもする。秀吉から「自分が考えていた通りのことを、指図する前にやっている」と評価され、小田原城攻めの後の論功行賞では、出世競争では一歩リード。豊臣政権を支える三中老の一人となる。